domenica 25 luglio 2010

QUARTIERE EBRAICA メンタリテイー又は文明の衝突 ?

ORTIGIA にあるユダヤ地区の我が家 CASA MIA.... CARINA !!

去年 VIA DEL CROCIFISSO に可愛い家を借りました1年間の約束で、、


Via del Crocifiss
o この通りも気に入って、必要家電(冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、湯沸かしポット、アイロン等)の全生活用品完備(シーツ、毛布、タオル、食器、ナイフやフォーク付き)のミニミニレジデンス一軒家に決めました。インテリアもセンスがいいし必要なのは衣類のみ、トランク1ヶでパリから引っ越しだ ワ〜イ !! と喜んで飛んできました。 



Via del CROCIFISSO にあるRONCO1への入り口とロンコにある私の家の玄関。




どの家もまず最初鉄扉がありその後にガラスや木のドアがある、我が家はガラスの玄関ドアー。写真左は玄関内側より屋外 RONCO を見たところ。右は玄関入ってすぐキッチン兼勉強机(さらに一段下の居間で何か調べたり書く事はしっけで不可能、、)




左は居間、右の写真は寝室から居間を見たアングル。壁の厚さ1m以上、広いサロンでインテリア等は悪くない、ただ昼でも電気をつけないと本当に真っ暗。部屋にはしっけを少なくすためにいつも大きなキャンドルを買って用意(クーラー兼暖房、湿気抜き装置機付の家ですが...)




上の写真は Via del Crocifisso 通り、奥に見えるのがユダヤ地区の中心シナゴーグ跡に再建され地下にユダヤ清めの風呂が発見されたSan FILIPPO 教会 


狭くてもこぎれいに管理されている Via del Crocifisso 毎朝この路地を我が家のあるRONCO 1°から出ると Via della GIUDECCA 方向に行き San FILIPPO 教会につきあたる(タバコ屋の看板Tがあるヶ所)さらにこの教会脇 VICOLO II ALLA GIUDECCA 通りをひたすら真っすぐ歩く。この路地を散歩しながら左右に目をきょろきょろさせて、何千年前のユダヤ人の生活風習とメンタリテイーに思いを馳せる、、今の人達は「ここに住んでいたユダヤ人はゲットーではなくて自由だったんだよ」と言います。本当かどうか私には恐ろしくて推察したくない、、ただ変な想像をしてみたり、、何故こんなに狭い路地なのか? もし路地の始まりに鉄扉をかける必要があったら?夕方又は朝方それが閉まったら?おまけに外から閉まったら?歴史考証で確実な研究結果なく想像するのは(歴史捏造に注意)よくない、止めたっ、、と、、どんどん歩いて行くとしまいに海にぶちあたります。そこでマニアチェ城の方向にむかって太陽をあびつつ海沿いをぶらぶら歩きVia Romaのはずれにあるミニマーケットに買物に行く、これが私の朝の日課。

Vicolo II alla Giudecca に毎朝地面にウニを山の様において真二つにわり中のウニをスプーンで丁寧に一本一本すくっている家族がいます。毎日彼らの前を通るので最後には挨拶しあう様になりました。家の中ではおばあさんが暗い中で光る巨大テレビを見ていました。ぎぇー、、日本人なら、何をさしおいても、まず太陽のあたる家に移る事を考える。暗い疑り深い目でじーと見るので、ちっと怖くなり挨拶もそこそこに退散しました。ちょう巨大なダイヤの指輪がおばあさんの指にキラキラ光り、、その瞬間ただの怖さでは無く、何か全メンタリテイーが衝突し合う様な戦慄を感じました。(んま〜そんなダイアモンドが買えるのなら、日の当たる家に引っ越す事を、と、、おせっかいに考えました)、、その夜ジュデッカの我が家の暗闇でハッと思い当たった一つは、何故吸血鬼ドラキュラがユダヤ人のメタフォラ物語になったのか?またドブネズミのメタフォラは地下道を利用する事からきたのかな?、、

文明の衝突 ? メンタリテイーの違い? それとも濁流の交差点か?と、、いつも静かに悩みますが、世界には理解不可能なメンタリテイーがガンと有る事を再認識しました。アル意味でこれか らの研究課題として的を射ているので、この意味深い周辺をゆっくりこれからも勉強していきたいと思っています。日本でよく出会うノホホンとした幸せな目の老人はここには見当たりません。この問題の糸口が何とか見つかった時、日本人は皆がなりたがっている国際人になれるのかも? ただ珍しい貴重な日本人の良い点を捨てて、そこまでして国際人になる必要があるのだろうか? 、、生き残る為にはもっと相手を知る必要が、、

それでこれからの世界は各文明文化の歴史とメンタリテイーの深部研究分析が大切「もっともっと勉強しなければいかんな〜」と私はユダヤ文化や各国ユダヤ系のメンタリテイーを 知りたいと興味を持ってあれこれ見て回ります。(かつて米国が「菊と刀」で私達を研究した様に、まず知る事が重要です、これは愛とは次元が違います)自分に何かとちょっかいだす者(ま〜ちょっかいくらいな らいいのですが、もっとひどくなる可能性も大いにあります、又その逆もありえますが、、)対する相手をよく知るために研究するのは大事な事だと考えるのです。

このブログのメインストリートである1990年代のイタリアと日本の姿。そして交差点になった湾岸戦争以後 日本は たたきがいのある、はらいせ役にぴったりな国になってしまいました。愛してくれた他の国がさっぱり見えず解らず、とんちんかんでトロイ、鈍感な国に落ちていったのです。誰も興味を持たない政治と外交をもつ国として、、その後は国際社会の舞台から少しずつ脱落していきました、、、

あれこれつくづく考えさ せられたジュデッカ暮らしの月日でしたが、その内さすがにタフな私も太陽不足と湿気で心理的にまいってきました。9ヶ月間がんばりましたが、引っ越しをする決心をつけ、アパート探し、幸い友人の応援で良い家が見つかりました。新しい家は太陽がいっぱいですが、インターネットまだ無し。そんなでフォト アルバムが続きます、、

SAYONARA QUARTIERE EBRAICA CASA MIA !!