giovedì 17 aprile 2008

INIZIO DELLA TRAGEDIA DI GOLFO 湾岸悲劇の開幕

1990年8月 湾岸危機の始まり BUSH VS SADDAM
( AMERICA VS GIAPPONE + ITALIA )

イタリアはバカンス中、真夏の2日にイラク軍がクエートに侵入し湾岸クライシスが始まっていた。私はトリエステの近くGradoの海で泳いでいたが 夕方のTVではブッシュ大統領が大声で訴えている。最初から何故か「戦争だァ」「戦争じァー」と口から泡を吹いて世界に罵声を響かせ叫んでいた。「何だ」、「どうした?」、「何で戦争なのか?」バカンス村の人々はもそもそ不思議そうに話し合っていた。

「これか、これだったのか、、長い間狙っていた復讐工作のチャンス、隠れた日本への宣戦布告だ、」私は心の中で唸った。いつかは起きると心配していた最悪の事態がこれで幕を開けた。イタリアはこの瞬間から哀しいドラマに追突していく運命を背負った。

夏も日が過ぎ、次第にイラク側に捕られた人質が増え始め日本人もTVに強制的に出されていた。イタリアの世論も戦争か否か(要するに米国か日本につくか)と真っ二つに分かれお互いに喧嘩を始めた。イタリアの国会では「何だか彼女(日本)はこのままでいくと強い男(米国)に殺されるのでは、」と不安が走り目が赤くなった政治家が大勢いた。イタリア中が「日本か米国か」の選択に迫られると言う妙な境遇にたたされてしまい、それぞれが自分の好きな方法で戦った、正当な政治戦争討論、又は隠れて戦うカラー戦争、おふざけギャグの投げあい合戦、広告TVCM/SPOT 広報戦争とメディア中も巻き込み、それはすごい愛憎戦争の始まりだった。

Bettino CRAXIのつまずき(社会党の崩壊
11月になり中曽根が日本の人質 取り戻しにサダムを訪問(中曽根老目をむき出してサダムを睨んでいたが)その後ゴルバチョフと会う予定とインターナショナルニュースのテレタイプが早朝TVに流れた, 途端にその日の午後、社会党の書記長であったクラクシが日本のこの行為を早合点して日本側につく行動を起こし、この動きは後に社会党を(様々な要素もあるが)一路崩壊への道に誘発してしまった。(又ゴルバチョフのソビエット連邦も年末には崩れていった)当時イタリア人は家に帰りTVの前に座ると突然3党に分かれると言われていた、内訳はRAI1はキリスト教民主党、RAI2は社会党、RAI3は共産党。この社会党のボスのギグシャクはその後にイタリア版大塩平八郎の乱(Antonio Di Pietro の Mani Pulite)を生む引き金にもなりクラクシは汚職事件で刑務所に入るかわりにチュニジアで余生を終る。社会党各政治家の怒りも頂点に達したが、その親派もカンカン。その頃日本企業がスポンサーでテニスカップが開催されたが、ひどい事に「何処かのへんぴな国かモンゴルかのスポンサーでこのテニスカップは、、」などと中継するアナウンサーがいた、強烈な社会党員だったようだ。他にも「一生日本を許さない、、」と豪語する党員がいた

キリスト教民主党分断と失脚
党首であり首相のアンドレオッティは戦争に乗り気が無くとうとうブシュに1本釣りされ米国から帰ると即内閣解散その後党は崩れて分断していった。もっとも彼は後にマフィアの関係者 影の参謀と調査され、消えつつある(まだいる〜)。彼の言葉は結構きつかった「何か米国から学ぶ事などあるのかね、」だが彼の内閣メンバーはポミチーノやデロレンツォなどひどい大臣が多くキリスト教民主党が腐敗後分断したのは時間の問題だったようだ。この頃の風刺は椅子の脚が一本短くて転げ落ちる様になっている映像が多く党員は「くそ〜日本なんて、、」とぼやいていた。

Pietro Ingrao(共産党)頑固老人の反骨
イングラオ老がたった独り「 NO ! 戦争は反対じゃ 」頑固に言い続けた、皆他の党員は「戦争はしたくない、、が、、しかし、、まあ、、でも、、平和論も分かるが現実は、、時と場合が、、」(罪のない女子供を殺す行為に時と場合があるのかね)こんな中で最後まで NO を貫いた老人。 勿論ソ連邦と共に雪は完全に溶け去った。(それで今 世界は洪水だらけ)

イタリアの国中が日本の為に泣いた、、心配で、ハラハラして。遅い決断、ちぐはぐな返答、外交キャッチボールが出来ない日本の世間知らず、、そんな姿を一生懸命に弁解してくれた。

Sergio Romano(外交評論家)の助け
兵隊を派遣出来ない日本がお金で支援、そしてその後の差額金の騒動に、TVは色々なお笑い風刺が流れる中、ロマーノ(外交評論家で元モスクワ大使)は「要するにアメリカの計算違いに過ぎない(戦争批判も含む)」と批判した(これは逆にとると橋本龍太郎の態度を弁護した型になる)この時彼は反対陣営からひどく非難され、ついには捏造事件もでっち上げられ、堪忍袋の緒を切ったRomanoは「決闘しよう」と言った騒動があった。橋本はその後来伊したが会議後カプリに遊びに行った、私は何故ロマーノを招待して会食しないのか理解に苦しんだ。

多額金の援助だったが後日 民主的な市民などいない独裁石油王国クエートから感謝されなかった事は日本の誇りと言える。(又日本を侮辱する絶好チャンスの湾岸戦争で日本への感謝の言葉など出る幕は無さそう)

まだまだ沢山のイタリア人が日本を思って傷つき苦しんだ、それはまるで恋人を慕う姿の様でもあった。ローマ法王(Giovanni Paolo II)は世界中の弱い者側に一緒にいたので大きな心の支えとなった。

イタリアの中にはあまりの痛みで疑う様にブツブツつぶやく人も出始めた「もしや、 俺たち同じ女性を愛してしまったのでは?」